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トランクルームの信用性

法律では六〇パーセントまで許されていることを考えると、私か庭にしていた通路をつぶして部屋や廊下にする、という方法もあった。 自分で見取り図を描いて、「仮想改築計画」の図面を描くまで本気になったこともある。
けれども、仮想改築計画を彫ってあれこれ考えているとき、はっと気づいたのだ。 そうやってむりやりに部屋を拡大し、周囲の敷地を削ることで、この家はゆとりのない、いじきたない家になってしまう。
私たちはその家が大好きだったのだけれども、家が広くなるかわりに、きっと好きではなくなってしまう。 私たちが、その家を好きだったのは、そっけないほど質素で、しかも、どこかに家を建てた人の知恵や心のゆとりが感じられるからだったのだから。
家の東側にある幅の広い「通路」は、なくてもいいもの。 狭くても幅一メートルあれば、人は歩ける。
けれども、庭をつくれるほどの幅の通路が取ってあるからこそ、たった2.5坪の建築面積しかない小さな家でも、 「土地が狭いから、家が小さくてもしょうがないわ」とは見えず、「土地は狭いけど、家はこのサイズでじゅうぶん足りているのよ」と見ることができるのだ。 それはたぶんに自分自身への強がりなのかもしれない。
でも、私には、その強がりをなくしてしまっては、ないものねだりに際限がなくなるような気がしてならない。 そういえば、近所で建て替えをした家は、五、六〇坪あるゆとりの敷地なのに、境界ぎりぎりまで家を広げていた。
敷地ぎりぎりに建ち、周囲を威圧する、ただの四角いずんどうの家を見て、なにか住む人の心根がうかがえる思いをしている。 家を一坪広くすることよりも、外まわりに一坪の庭を取るほうが、あなたの暮らしが豊かになることもあるはずだ。
そして、その豊かさは、あなただけではなく、その庭を眺め、共有するとなりの人や地域の人にもわけ与えられるものでもある。 しかたなく敷地ぎりぎりまで家を建てるとしても、わずかな周囲のスペースの使い方で、また違ってくるものだろう。

周囲をコンクリートで固めてしまえば、あなたの手人れはらくかもしれない。 雑草が茂っていても、室内からは見えないかもしれない。
でも、コンクリートで固めるのではなく、花壇で家を縁取りすれば、あなたの家がすてきに見える。 よく手入れされた庭は、メンテナンスフリーのコンクリートよりも、住んでいる人の心根を豊かに見せる。
そんな家に住むことで、あなたの気持ちも明るくなるし、まわりの人の心も明るくなるに違いない。 世の中には「家相」という考え方がある。
もともと、占いには根拠などなく、信じられるよりどころをいかにして提供するかの論法だと思っている私であるから、 家相についても、信じたい人は信じればいいし、信じたくない人は無視すればいい程度に思っていた。 ところが、なんどか自分で家を選ぶようになって、少々考えが変わっている。
変わったといっても、家相を頭から信じるようになった、というわけではない。 ああ、これは多くの人にとって価値のある知恵だったのだ、と納得したのだ。
むかしから、住みやすい家を探したり建てたりするのはたいへんむずかしいことであったに違いない。 それぞれの自然環境があるし、日当たりやまわりの植物によって家のなかの環境も大きく変わる。
よほど経験を積んでいるか腕のいい大工であれば、目の前にある土地を見てその土地のよさを活かし、 欠点をおぎなう家が建てられるだろうけれど、そうそう腕のいい大工ばかりとはかぎらない。 そのときに、家相が「住みやすい家の原則」をざっくりと示してくれると、いい家を考える手だてになる。

それに加えて、かつては「建売住宅」などというものはなくて、住み手の注文で家が建てられていたこともあるだろう。 住み手には人それぞれの住み方や好みがあるから、「ここに部屋をつくれ」「階段は家のまんなかにどーんととおせ」 「便所は臭いから北の隅に離しておけ」などと勝手な注文をつける。
可能な注文ならばいいけれど、素人の浅知恵で、そのとおりにすると住みにくいとか健康上悪いとか都合が悪くなることもある。 プロの大工にそれがはっきりわかっているとき、家相が役に立つのではなかったか。
大工が「いや、家相上は凶ですよ」などと言えば、「そうか、しかたない」とあきらめる。 しだいに因習めいた要素が強くなっていき、「原則」であることを離れて絶対的な「禁忌」になっていって、 うとまれるようになったけれど、本来は家という難しいものをつくるときの知恵だったに違いない。
じっさいに、「北東は鬼門だから不浄をつくってはいけない」「門と玄関は一直線上につくってはいけない」 「家の近くには大きな木を植えてはいけない」「中央が欠けている家は住んではいけない」などという家相のタブーを読むといかにもあやしげ。 でも、これらについては、私は自分の経験から「そうだよなあ」と実感する。
北東の鬼門はともかく、北側は湿気も多いし、家の裏側にあたることが多いからゴミ置き場にしたりとりあえずの物置にしたりしがち。 南の日当たりだけを考えて、居住空間は南にして、北側は風呂場やトイレなどをむりに並べがち。
だから、いっそ「不浄はいけない」と考えたほうが、じょうずに北側を使いこなせる。 門と玄関が一直線上だと、門を入ってきた来客と玄関を開けて鉢合わせしそうになるし、玄関を開けると家のなかまで丸見えだ。
家の近くに木があると、屋根に落ち葉が積もるし床下に湿気がこもる。 家の中央がしっかりしていないと、地震のときに心配だ。
それでも、どうしてもそうしたい、という強い理由がなければ、まあ避けたほうが無難なのはよくわかる。 欠陥住宅に悩む人が多いのも、「住みやすい家を建て、選ぶのは、むずかしいもの」という常識がなくなり、 そのための知恵も通用しなくなってきたからではないか。

家相がたんなる因習に堕したのと、根本は同じなのかもしれない。 家じたいの性格ともいえる「住みやすさ」を、ちゃんと見極めなければならない、という常識がなくなって、見映えや何LDKかという部屋数、 あるいは交通の便などで判断して、家を選ぶ人が増えてきたことが、欠陥住宅の横行を許しているように思では、具体的に、どういう態度で家を見極めればいいのか。
私白身にも見映えや間取りに惑わされるところがあるので、えらそうなことは言えないのだが、こと「家の性格」を見抜くことにかけては私の夫に見習うところが多い。 もともと、画家である彼は感覚の鋭い人である。
たとえば食べものの賞味期限も、私はつい表示を見て判断してしまうのに、彼はにおいを嗅いでみたりちょっと食べてみたりする。 そして、「うん、大丈夫」などと太鼓判を押す。
「あ、そういう判断方法があったのか」と、あたりまえながら新鮮な感動をたびたび与えてくれる人なのだ。 夫婦で家を探しているときも、なかを見せてもらう家に一歩入ったとたん、「この家はだめだ」などと断言する。
もちろん、私にだけ聞こえるようにだが。 そして、「そんなむちゃな」とあわてているあいだに、いちおうひととおり見て、一人で納得して終わり。
私か、「あー、すてきな階段」などとうっとりしているのに、である。 しかし、その感覚が正しいことがだんだんわかってきた。


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